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お笑いポーポー スペシャル

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レンタル期間:3日間 有料 ¥500

伝説のお笑い番組『お笑いポーポー』の中から厳選されたコント・漫才を掲載。 ①オープニング ②「親子」 ③「ゴーヤーチャンプルー由来記」 ④「医者ー注射したい」 ⑤「ポーポー講座」 ⑥「ディスコカチャーシー」 ⑦「夢をあきらめないで」 ⑧「三味線三兄弟」 ⑨「銀行強盗」

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お笑いポーポー シリーズ

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1991年に放送された伝説のお笑い番組「お笑いポーポー」をシリーズでお送りします。

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琉神マブヤー

琉神マブヤー

ドラマ エンタメ
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2008年。平和に見える沖縄。だがその影で悪の軍団・マジムンが現れ、伝説の9つのマブイストーンを狙っていた…。沖縄に最大の危機が迫っているそのとき、マブイストーンの守り神・琉神マブヤーのマブイ(魂)が1人の男を運命的に引き寄せ、悪の野望を打ち砕くべく復活した…!

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オキナワノコワイハナシ

オキナワノコワイハナシ

ドラマ エンタメ
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でーじ恐怖!満月が芭蕉の濃い影を落とす深夜に産声を上げた、沖縄ホラードラマシリーズ。 沖縄内外で活躍する気鋭のクリエーターたちが手掛けた、古から沖縄に伝わる風習、風俗、迷信などを包含したオムニバスドラマ作品。

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【無料プレビュー】王様が愛した滋養スープ~母から娘へ心のバトン~

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数ある琉球料理の中でもイラブー汁はクスイムンの頂点にあると言える。 イラブーとはイラブウミヘビのことで、昔から滋養強壮のとして琉球王国時代から食されてきた。 北中城村でイラブー料理の専門店を長年営む我謝藤子さん。 ひとり娘のイズミさん、そしてその夫でアメリカ人のアレックスさん3人でイラブー汁を作り続けている。 高級食材イラブーは調理が難しく、手間もかかる。 けれど、沖縄で愛され続ける食材との相乗効果で”唯一無二の美味しいスープ”が完成するのだ。 イラブーを食材として世に出すのは神の島・久高島。 イラブーを捕獲した後、王国時代から続く伝統の燻製作りを一週間かけて行なうのだが…。 ※蛇が映るシーンが多くございます。ご注意ください。


【無料プレビュー】土の記憶~帰らざる島・伊江島の相克~

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沖縄県北部、東シナ海に臨む伊江島。 沖縄旅行の人気スポット、美ら海水族館を訪れた方なら、麦わら帽子の様な島影に、見覚えがあるのではないだろうか。 人口4400人あまり、葉タバコや電照菊など農業が盛んな島だ。 のどかさとは打って変わって、時折、米軍機の音が鳴り響く。 島の面積のおよそ3分の1を軍用地が占め、海兵隊の訓練が行われているからだ。 軍用地はフェンスで仕切られているところもあれば フェンスがなく農地や県道として利用されている場所もあり、人々の生活と基地が混在している。 沖縄戦では当時、島にいた住民の半数近くが犠牲になり、米軍は占領と同時に演習場を建設。 10年後の1955年には、これを拡張するため、畑を焼き、家を破壊した。 米軍自ら「invasion(侵略)」と記したこの土地接収は、住民たちの生活にどのような影響を与えたのか。 残された写真や日記、そして証言を基に、土地接収の実態に迫り、沖縄の今をみつめる。

 
【無料プレビュー】不条理の狭間で~辺野古の四半世紀~

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沖縄県名護市辺野古。 沖縄本島北部東海岸、太平洋に面し、米軍海兵隊の基地「キャンプ・シュワブ」に隣接するこの集落は、「世界一危険」といわれる宜野湾市の米軍普天間基地の移設先として突如注目を集めることとなった。容認・反対は小さな集落を二分し、また市長選挙・県知事選挙のみならず国政に関わる選挙でも争点のひとつとなってきた。 移設が取り沙汰されてから25年。 長い年月の間に住民を育んできた海では埋め立てが始まり、集落は静けさを取り戻したように見える。こうしたなか区民らで組織され、6年前に解散した「命を守る会」で代表を務め、海の前に設置したプレハブから最前線で反対を訴えていた区民の西川征夫さんは、区切りとして回想録の執筆を始めた。土砂投入が進むなか、容認・反対、どちらが勝ちどちらが負けたのか。 活動を支えた地域の“おばあ”たちの思いと条件付き容認を掲げる友人との交流を交え、“反対”を訴え続けた四半世紀を西川さんの目線で見つめる。


【無料プレビュー】戦世ぬ哀り~サイパン太平洋の防波堤~

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西太平洋に点在する600を超える島々。 現在の「ミクロネシア」の島々を、日本は「南洋群島」と呼び、太平洋戦争で敗れるまでのおよそ25年余り、委任統治していた。 そのうちの1つがサイパンで、事実上の領土にするため、多くの移民を送り込んだ。その足掛かりとして設立された「南洋興発」は、海軍の後ろ盾を得て発展。製糖業のほか、水産業など南洋各地で事業を展開し、〝北の「満鉄」南の「興発」〟と言わしめた。会社は暑さと労働に耐えうる移民として沖縄出身者を求め、貧困にあえぐ沖縄側の利害も一致し、多くの県民が移住した。サイパンだけでも2万7000人余りが暮らしていて、 そのおよそ7割を県出身者が占めるほどだった。(1942 年時点) 「南洋の暮らしはとても楽しかった」と永山幸栄さん(92)は懐かしむ。 父が南洋興発で働いていた永山さんは、サイパンで生まれ育ち、家族8人で穏やかな暮らしを送っていた。 しかし、島での暮らしに暗雲が立ち込める。 太平洋戦争が勃発し、日本の敗色が濃くなった1944年、政府は「南洋群島戦時非常措置要綱」を閣議決定。この中には、「南洋群島在住民の総力を結集して直接戦力化し、軍と一体となりて皇土前線の防衛にあたらしむ」など、住民を戦力と捉える文言が並ぶ。 米軍上陸後、閣議決定の内容に沿うかのように、住民は戦闘に巻き込まれ、日本本土を守る防波堤として多くの命が失われた。 証言と史料を基に、島の歴史とサイパン戦の実相に迫る。

エンタメ

     

報道・ドキュメンタリー


池上彰と復帰50年を総決算スペシャル

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報道・ドキュメンタリー

池上彰がRBCと初タッグでつくる復帰50年の特別番組。 JO1與那城奨が真剣に向き合った「復帰とは」、 世界に羽ばたくボーイズグループを引っ張るリーダーから飛び出した直球質問に池上さんも驚く。 知らなかったこと、気づかされたこと、奨のこんな真剣な表情、みたことない! 新進気鋭の作家オーガニックゆうきは、独自の視点で池上解説に切り込む。 鋭い質問に思わず池上さんから…あの言葉、「いい〇〇ですね~」も飛び出した!? 喜舎場泉は、おじいおばあとの日常で感じていた素朴な疑問をぶつける。 泉とともに復帰前生まれとして参加した新城和博からは、池上さんばりの名解説が生まれた!? 池上さんは在沖基地やアメリカ軍核施設などの沖縄取材も敢行。 あの復帰とは何だったのか、50年で何が変わり、何が変わらなかったのか、県民とともに考えながら、これからの沖縄の未来を展望する。 #本土復帰 #戦争 #沖縄戦 

  
土の記憶~帰らざる島・伊江島の相克~

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報道・ドキュメンタリー

沖縄県北部、東シナ海に臨む伊江島。 沖縄旅行の人気スポット、美ら海水族館を訪れた方なら、麦わら帽子の様な島影に、見覚えがあるのではないだろうか。 人口4400人あまり、葉タバコや電照菊など農業が盛んな島だ。 のどかさとは打って変わって、時折、米軍機の音が鳴り響く。 島の面積のおよそ3分の1を軍用地が占め、海兵隊の訓練が行われているからだ。 軍用地はフェンスで仕切られているところもあれば フェンスがなく農地や県道として利用されている場所もあり、人々の生活と基地が混在している。 沖縄戦では当時、島にいた住民の半数近くが犠牲になり、米軍は占領と同時に演習場を建設。 10年後の1955年には、これを拡張するため、畑を焼き、家を破壊した。 米軍自ら「invasion(侵略)」と記したこの土地接収は、住民たちの生活にどのような影響を与えたのか。 残された写真や日記、そして証言を基に、土地接収の実態に迫り、沖縄の今をみつめる。


不条理の狭間で~辺野古の四半世紀~

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沖縄県名護市辺野古。 沖縄本島北部東海岸、太平洋に面し、米軍海兵隊の基地「キャンプ・シュワブ」に隣接するこの集落は、「世界一危険」といわれる宜野湾市の米軍普天間基地の移設先として突如注目を集めることとなった。容認・反対は小さな集落を二分し、また市長選挙・県知事選挙のみならず国政に関わる選挙でも争点のひとつとなってきた。 移設が取り沙汰されてから25年。 長い年月の間に住民を育んできた海では埋め立てが始まり、集落は静けさを取り戻したように見える。こうしたなか区民らで組織され、6年前に解散した「命を守る会」で代表を務め、海の前に設置したプレハブから最前線で反対を訴えていた区民の西川征夫さんは、区切りとして回想録の執筆を始めた。土砂投入が進むなか、容認・反対、どちらが勝ちどちらが負けたのか。 活動を支えた地域の“おばあ”たちの思いと条件付き容認を掲げる友人との交流を交え、“反対”を訴え続けた四半世紀を西川さんの目線で見つめる。


戦世ぬ哀り~サイパン太平洋の防波堤~

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西太平洋に点在する600を超える島々。 現在の「ミクロネシア」の島々を、日本は「南洋群島」と呼び、太平洋戦争で敗れるまでのおよそ25年余り、委任統治していた。 そのうちの1つがサイパンで、事実上の領土にするため、多くの移民を送り込んだ。その足掛かりとして設立された「南洋興発」は、海軍の後ろ盾を得て発展。製糖業のほか、水産業など南洋各地で事業を展開し、〝北の「満鉄」南の「興発」〟と言わしめた。会社は暑さと労働に耐えうる移民として沖縄出身者を求め、貧困にあえぐ沖縄側の利害も一致し、多くの県民が移住した。サイパンだけでも2万7000人余りが暮らしていて、 そのおよそ7割を県出身者が占めるほどだった。(1942 年時点) 「南洋の暮らしはとても楽しかった」と永山幸栄さん(92)は懐かしむ。 父が南洋興発で働いていた永山さんは、サイパンで生まれ育ち、家族8人で穏やかな暮らしを送っていた。 しかし、島での暮らしに暗雲が立ち込める。 太平洋戦争が勃発し、日本の敗色が濃くなった1944年、政府は「南洋群島戦時非常措置要綱」を閣議決定。この中には、「南洋群島在住民の総力を結集して直接戦力化し、軍と一体となりて皇土前線の防衛にあたらしむ」など、住民を戦力と捉える文言が並ぶ。 米軍上陸後、閣議決定の内容に沿うかのように、住民は戦闘に巻き込まれ、日本本土を守る防波堤として多くの命が失われた。 証言と史料を基に、島の歴史とサイパン戦の実相に迫る。

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戦世ぬ哀り~サイパン太平洋の防波堤~

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